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WSC #011 堀林 正
Tadashi HORIBAYASHI
[SCYTHE(サイズ)]
2Dと3D双方を駆使してデザインを練り上げる
「新進気鋭」のオルタナティヴ系アーティスト
ここでもまたひとり、「他者から自分がどう見えているか」ということをまったく気にかけていない(気にかけられない)天然系の超新星が、有象無象のなかに埋もれかけている。男の名前は堀林 正。なんの前触れもなく、これまでの経歴や過程を示すこともなく、いきなり「その道10年のプロよりもよほど上手い」作品をさもあたりまえのようにワンフェス会場で提示してしまった、“扱いに困る才能”だ。報道体制が確立されているスポーツの世界などでは「超大型新人登場!」と騒ぎ立てられるところだろうが、残念ながらこの世界では、(WSC#010 S.A.Eなどと同様に)他人行儀な感じで遠巻きに眺められ、その才能にほとんど光が当たらぬまま今日に至っているのが実情である。「自分が無知なだけで、この人はきっと、どこかの世界では有名な人なのだろう」といった具合に――。
堀林の作品は、いわゆる“オリジナル(=創作系)メカ”と呼ばれるジャンルに属するものだ。2Dデザインの芸風的には「山下いくと+士郎正宗+α÷3」といったテイストだが、それを自身で3Dにトランスレートした時点でデザインが完成に至る(というか、2Dと3D双方を駆使してデザインを煮詰めていく)あたりは、旧『SF3D』現『マシーネンクリーガー』の作者である横山 宏氏を彷彿とさせる仕事ぶりと言える(彼の作品に見られる可動部の複雑なリンケージ構造などは、2Dデザインと3Dモデリングの両方に長けている人間でないと絶対に生み出せないものだ)。また、有機曲線と三次元曲面の組み合わせを多用するその表現方法からは、現状のメカ系造形シーンが陥っている“ガンプラ至上主義”と相反する、オルタナティヴなアイデンティティを感ずることだろう。
ただし、そうしたパンクかつポップなアイデンティティを有しておきながら、「流行の最先端を敏感に察知し、そこと自身との距離を計る」といったリサーチ&デペロップメントにはてんで無頓着であり(たとえば、ワンフェス会場で「山下メカっぽいですね」と言われたときには山下いくと氏の存在を知らず(苦笑)、その後あわてて山下作品をチェックしたらしい)、また、「つねにカウンターカルチャー的存在でありたい」というパンク系クリエイター特有の自意識もまったくと言っていいほど感じられないのだ。
「版権モノでなかった理由は、これといって作りたい版権モノがなかったからで……いや、でも、オリジナルで勝負したい気持ちもあるにはあるんですけどね」
思わず「どっちなんじゃー!」と叫びたくなるが、この飄々とした「“セルフプロデュース”という行為とは限りなく無縁な感じ」が、堀林の堀林たるところでもあるのだ(たとえば彼のWebサイトを覗いてみても、いったい何が表現したいんだか他者からはさっぱりわからない!)。まったくもって、扱いに困る才能なのである。
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text by Masahiko ASANO |
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ほりばやし ただし●1972年9月18日生まれ。本業は「名前の出ない原型製作業」。幼少期から「なんとなく」プラスチックモデル製作を続けるが、狂乱のガンプラブーム時にも「色を塗るまでには至らなかった」程度のハマり方。高校在学時、模型コンテスト出品用にメルカバ(現用戦車)を本格的に製作したのが転機といえば転機だったが、かといって、「そっち方面にのめり込んで行ったわけでもなかった」そうだ。3~4年前、フルスクラッチビルドで製作したフチコマ(from『攻殻機動隊』)を通じて「ワンフェスに出品しないか?」と声をかけられ、これがことの発端となり、“アルバクリエイツ”から'99年夏のワンフェスに初参加。'00年冬からは、自身のブランドである“SCYTHE(サイズ)”にて出展を果たし、現在に至る。バイファムやヤマンバギャルやT-55やランチア・デルタやイージェイルなどのモデル群がほとんど説明なしで等価に扱われている(苦笑)Webサイトを覗けば、この人のわけのわからなさが理解できる(「理解し難い」という事実が理解できる)はずだ。
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WSC#011プレゼンテーション作品解説 |
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© 2002 SCYTHE / HORIBAYASHI TADASHI

イージェイル(実戦版)
※from『ディネスタル(仮題)』
1/72(全高190mm)レジンキャストキット
■ 商品販売価格
ワンフェス会場特別価格/9,800円(税込)
ワンフェス以降の一般小売価格/14,800円(税別)
(※販売は終了しています)
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© 2002 SCYTHE / HORIBAYASHI TADASHI

新進気鋭アーティスト・堀林 正が、停滞する現在のメカ系造形シーン(精度面だけが右肩上がりで、センス面はここ数年ほとんど成長なし)に一石を投じる意欲作、“イージェイル”。その驚異的な完成度の高さは、堀林が展開するオリジナルタイトル(『ディネスタル(仮題)』)に登場するオリジナルデザイン(=造形者自らの手による創作デザイン)であるという事実を思わず疑ってしまうほどのものです。有機的な曲線や三次元曲面の多用で構成されたフォルムは、眺める角度によって恐ろしいほどその表情を変え、見る者を決して飽きさせません。
さらに、キットに付属するポリキャップの組み込みで全身がフル可動するだけでなく、差し替えパーツなしでの巡航形態への変形も可能です。
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堀林 正からのWSC選出時におけるコメント |
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形を構築していくという行為は非常に自由なものであり、また、ときには偶然と意外性が介在するという、ある意味においては「時間を凝縮する手段」だと感じている。
しかし、理屈で考えているよりも現実は厳しいもので、必ずしも思っているようにことは進まない。
壁はどこかに存在する。それは理想と現実の格差を実感するときでもある。個人活動での製作は壁が多く、ふと気付けば落とし穴も多い。時間や資本という物理的な要素しかり、感性や技術という資質的な要素しかり。それらが損なわれると、集中力の欠落へと繋がる。それは危険なことである。
しかし、危険を恐れ、何も形を残せないのは、もっとも始末が悪いことではないだろうか。形がないと何もはじまらないのだから。
はじまりを作るために、私は形を作るのである。なんでもいい、くだらなくても構わない。その形に対して誰がどう思うかは二の次であり、自分自身がどう完成へと駒を進めるかが問題である。
しかし、完成へと行き着いた形は、自分以外の人の目に届き、その結果、私に意見が返ってくる。そこには、私が思い付きもしなかった考え方や方向性が示されており、その事実に私は驚くのである。私にとってこの「他者の意見」というのは、意外性の含まれた有意義な部分でもあるのだろう。
また、私はとくにこれといって作るモノの類型は問わない。個々それぞれに方向性は違い、それらの組み合わせによっては、新たな形を作り出す可能性がある。それは偶然と意外性といった部分で、非常に愉快なことでもある。
ただ、このままの繰り返しではいけない。自己満足とは別次元の、他者からの視点というものも無視することはできない。目指すのは、完成度の高さであり、高密度な時間の凝縮。それが自分への課題である。
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